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夏原カレン グラマラス No.23 2/2


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[イベント.12-7.東京] 難民・移民に生きる権利を!仮放免者に在留資格を!


12.7「仮放免者に在留資格を!」デモのおしらせ(法務省入管への要求) わたしたち 難民(なんみん)・移民(いみん)は 入管(にゅうかん)による 長期収容(ちょうきしゅうよう)によって 心身(しんしん)共(とも)に ボロボロに なり、やっとのことで 仮放免許可(かりほうめんきょか)を 受(う)けました。 しかし、いつまた 収容(しゅうよう)される かも しれません。それに、仮放免(かりほうめん)に なっても 働(はたら)くことは 認(みと)められて いません。仕事(しごと)を しないで どうやって生(い)きて いけば 良(よ)いのでしょうか。 また、移動(いどう)が 制限(せいげん)されて おり、急(きゅう)に 遠(とお)くに 住(す)む 友人(ゆうじん)が 病気(びょうき)に なっても、まずは 入管(にゅうかん)に 許可(きょか)を 得(え)ないと お見舞(みま)いにも いけません。さらに、在留資格(ざいりゅうしかく)が ないため 国民健康保険(こくみんけんこうほけん)にも 加入(かにゅう)できません。 仮放免者(かりほうめんしゃ)の 生活(せいかつ)は、労働(ろうどう)できず、国民健康保険(こくみんけんこうほけん)にも 入(はい)れず、生(い)きて いく手段(しゅだん)、病気(びょうき)に なっても 治療(ちりょう)を 受(う)ける手段(しゅだん)を 奪(うば)われて います。仮放免者(かりほうめんしゃ)は 全国(ぜんこく)に 1000人から 2000人 いると 思(おも)われますが、わたしたちの 生存権(せいぞんけん)は 奪(うばわ)われて います。 & 続きを読む

クィア理論入門公開連続講座のお知らせ


*会場の変更があります。以下の情報を確認してご参加ください。 クィアという言葉は聞いたことがある、 ジェンダーやセクシュアリティをめぐる議論に興味がある、 もう少し詳しく知りたいけれど入り口が見つからない、 そういう方に向けて、 クィア理論入門の連続授業をおこないます。 昨年度とは異なる講師、異なる切り口で、すすめて参ります。 また、昨年と比べると多少ではありますが、時系列よりはテーマごとの設定になる予定です。 今年のテーマは「可視性」です。ドラァグやカミングアウトから、女性/女装ということ、さらに障害学やギャル論まで、どう繋げて行くのか、ご期待いただければと思っております。 皆様の御参加をお待ち申し上げております。 *講師:井芹真紀子(東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程、フェミニズム/クィア理論) *クィアな可視性をめぐるポリティクス 2011.10.19 イントロダクション 2011.11.02 沈黙=死:エイズ危機とドラァグ 2011.11.16 見えない差異:フェムレズビアンとトランスセクシュアル 2011.11.30 クローゼットってなに?:パスとカミングアウト 2011.12.14 選ばないことを選ぶ:クィア障害学と特権的身体 2012.01.18 女性が女装する:ギャルの商品化とホモノーマティビティ *時間:水曜 19:30~21:00 *場所:東京大学駒場キャンパス18号館1Fメディアラボ2 4Fコラボレーションルーム1 *対象:10代後半以上の方 お問い合わせ先:東京大学大学院総合文化研究科 清水晶子 qstudieskomabaあっとgmail.com(「あっと」を@に変えてご利用ください) なお、この公開授業は、科学研究費補助金(基盤C)「日本におけるクィア・スタディーズの展開」〈クィアと教育〉部門の研究事業の一環として行われます。 https://plus.google.com/113292625936673729653/posts/NqJndSkwjyE

クィア研究者、アーティスト、活動家の皆さんへの公開書簡


クィアのみなさん、研究者・アーティスト・活動家のみなさんへ 皆さんの中にはイスラエルで行われるクィア系イベントや文化的あるいは学術的な催しに参加する予定をお持ちの方、更にはそれらの催しを支持しているかたもいるかもしれません。宗教的な理由や個人的な都合で、あるいは純粋な好奇心からイスラエルに訪問する予定がある方もいらっしゃるかもしれません。イスラエルに招かれることは心躍るすてきなことに感じられるかもしれませんが、皆さんが立場を決めて飛行機の予約をする前に、以下の公開書簡を読んでくださることを切に願います。この書簡はパレスチナ人のクィアたち、活動家たち、研究者たち、そしてアーティストたちからの、世界中のクィアたち、活動家たち、研究者たち、そしてアーティストへと差し出された公開書簡です。 続きを読む

ヘテロセクシストのいる教室


 文学研究をするときにポジショナリティを問われる研究者と問われない研究者がいる。ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、大抵、どのような立場から論じているのかと問われるが、普遍的で、偏りがなく、常識的で、中立であると標榜している「普通の研究者」(正確に名づければ、ヘテロセクシストな研究者)にたいして、どのような場所から研究しているのかという問いが発せられることは少ない。今回、私は、ヘテロセクシズムという枠組みでものごとを捉える研究者を、正確に、ヘテロセクシストと名づけて、「ヘテロセクシストがいる教室」について考えてみようと思う。  ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、多くの場合、ヘテロセクシストがいる教室の特定の椅子に座ることから学問を開始する。「ヘテロセクシストがいる教室」において、その構成員の、ジェンダーやセクシュアリティのバランスについては興味があるところではあるが、ここでは、ヘテロセクシストな研究者が、どのようにしてヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者の言葉を無化するかについて述べたい。  ヘテロセクシストとは、「異性愛という特定の生活様式を規範としてみなし、社会的、経済的な特権を認めるような立場に立つ人*1」と広く定義できるかと思う。「ヘテロセクシストがいる教室」では、「生殖が人類の基本的な仕事だ」という考えがまかり通っていたり、「女性差別主義」を標榜する研究者の言葉が違和感なく響いていたり、異性愛を標準的なセクシュアリティだと主張し、異性愛者というアイデンティティが自然で自明なものであると疑わないように議論が組み立てられ、時折、女性やセクシュアルマイノリティがトークンマイノリティの研究者(女性やセクシュアルマイノリティを代表して話す許可証を与えられた研究者)として徴用される。私は、そのような教室のことをさして「ヘテロセクシストがいる教室」と呼ぶ。  「ヘテロセクシストがいる教室」において、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしたり、異性愛という規範から「逸脱」した「性、身体、欲望のあり方」について議論しようとする研究者は、抹消されるか、置き去りにされるか、攻撃されるか、特色づけられて、時には保護されたり、珍しがられたり、愛でられたり、「わたしたちとは違う人々がいるのだ」というふうに「別世界」の話として意味づけられ、「ここにもちゃんとそういう研究者がいますよ」という意味で、許可証を与えられた存在として扱われる*2。トークンマイノリティの研究者は、時には、「多様性のひとつ」として歓迎されることすらあるが、「ヘテロセクシストがいる教室」において、ヘテロセクシストな研究者が自明視している枠組みを問うた場合、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、議論を遅らせる厄介者のように扱われるか、「ジェンダーやセクシュアリティについては詳しくないので」という、無知を装う戦略によって、無効な問いを発した張本人のように扱われる*3。しかし、「ジェンダー、セクシュアリティについては詳しくないので」という「度しがたいまでの無知*4」の表明には、「知らなくてもいいという権力」と「知らないでいることの特権」が潜んでいるということは、明記しておいてよいと思う*5。「ジェンダーとセクシュアリティについては詳しくないので」という弁明には、「だってわたしは別に知らなくてもいいから」という「度しがたいまでの無知」が潜んでいることが多い。 しかし、「度しがたいまでの無知」だけではなく、「度しがたいまでの有知*6」もまた、「ヘテロセクシストがいる教室」における大きな問題のひとつであると思う。 ヘテロセクシズムへの批判的な介入をしようとする研究者にたいしてヘテロセクシストな研究者がいう決まり文句に、「ジェンダー/セクシュアリティという視点はすでに新しくない」、「ジェンダー/セクシュアリティという視点をとりいれないで行われている研究などもはやない」という物言いがある。その言葉は、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」という「度しがたいまでの有知(実際には無知の変奏)」によって支えられているように思う。けれども、本当に、ジェンダー/セクシュアリティという視点は新しくないといってしまえるのだろうか? あるいは、すでに達成された何かがあるのだろうか? ジェンダーという言葉を手放せない研究者が存在する限り、ジェンダー/セクシュアリティという視点が目新しくない、あるいはその概念によって「おもしろい読み」を提出できないという指摘は、的外れを通り越して、恥知らずだと思うのだが、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」という、「知らなくてもいいという権力」と「知らないでいることの特権」の変奏は往々にして、「ヘテロセクシストがいる教室」においてはまかり通る。  多くの場合、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、ヘテロセクシストがいる教室に座ることから研究を開始する。そうして、「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」が交叉する渦中で研究をはじめることになる。しかし、ひとつつけ加えておくべきことは、ヘテロセクシズムに対して批判的な介入を行おうとする研究者自身もまた、「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」がせめぎあう中で、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」と思い込んでいることがあるということだ。知っていると思い込んでいたことを実際には知らなかったり、知っているはずだと思い込んでいることを実際には共有できていなかったりということは、十分にありうる。その際に、「わたしは十分に知らないから、知りたい」と明言することは、「ヘテロセクシストがいる教室」でのひとつの重要な立場表明となりうるだろう。だから、わたしは、はっきりと、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしているということを示すし、あなたのことをヘテロセクシストだと名づけて(あたし結構怖いことをしてる)議論をはじめる。 (注) *1:ジェイン・ピルチャー・イメルダ・ウィラハン著『ジェンダー・スタディーズ』片山亜紀訳者代表、新曜社、83。「ヘテロセクシズム」についてさらに詳しく知りたい方は、竹村和子「〔ヘテロ〕セクシズムの系譜」『愛について』、2002、岩波書店と、「「資本主義社会はもはや異性愛主義を必要としていない」のか」上野千鶴子編『構築主義とは何か』、2001、勁草書房を参照。 *2:ヘテロセクシストな研究者は、ジェンダーやセクシュアリティの話になると、急に女性やセクシュアルマイノリティに話をふることが多い。男性を補うために女性に語らせ、異性愛を補強するためにセクシュアルマイノリティの存在を際だたせようとする戦略をとるようだ。しかし、その場合、「性の多様性」という言葉で、教室にいる、女性やセクシュアルマイノリティの研究者の存在が、ヘテロセクシストな研究者の「ものの見え方」の中で、見たいようにな可視化されるという事態が生じることがある。特に、ヘテロセクシストな研究者が、女性やセクシュアルマイノリティの歴史について一通り知っており、フェミニズムやクィア理論の概念や理念について知悉しているときに起こりがちなのは、目の前のひとりの研究者の存在はかえりみられず、ここにもちゃんと女性の研究者がおり、セクシュアルマイノリティの研究者もいますよというように「戯画化」されるという事態だ。そこにいるだけで、あとは喋らないか、望むべき女性、望むべきセクシュアルマイノリティとして話すはずだったトークンマイノリティの研究者が、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしたり、異性愛の規範を侵犯するかもしれないとみなされたりする場合、「性の多様性」なんてあったかしらというような勢いで、主要な議論から逸脱している厄介者という烙印が押される。 *3:ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者が感じる困難のひとつに、「ジェンダーとは何か」、「セクシュアリティとは何か」という前提について話していると、いつのまにか持ち時間が終わっており、主要な議論を押しとどめようとする厄介な人という評価が下されているということがあるのではないかと思う。ジェンダーやセクシュアリティについての定義や歴史的な経緯などについて十分に話す訓練を積み、実際に議論の場数を踏んでいる研究者であったとしても、知らないでいたいヘテロセクシストな研究者が聞く耳を持たなかったり、「わたしはもう十分に知っている」という「度しがたいまでの有知」を示した場合、どれだけ話しても聞かれないという事態が生じる。「度しがたいまでの無知」は、たやすく、「もう十分に知っているから知らなくてもよい」という「度しがたいまでの有知」と共謀して、それ以上、話すなと、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者の言葉を無化する。 *4:この言葉自体は、岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』、2000、青土社、132。 *5:イヴ・コゾフスキー・セジウィック『クローゼットの認識論』外岡尚美訳、1999、青土社、15,16。セジウィックは、「無知の複数化・特定化」の必要性についても述べている。 *6:この言葉自体は、宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』、2007、みすず書房、144。 (地下室のアーカイブスより転載http://d.hatena.ne.jp/ari1980/20101108)

ドイツの団体によるジュディス・バトラーのインタビュー(和訳)


1956年オハイオ州クレヴァランドに生まれたジュディス・バトラー。彼女を知らない人などいるだろうか。『ジェンダー・トラブル』の出版以来彼女は、彼女の理論、とりわけジェンダーのパフォーマティヴィティの理論によって国際的に知れ渡った。フェミニズム、クィア理論及び政治哲学という、その内部で彼女自身が熱心な活動家かつブッシュ政権下のアメリカの戦争政治の批判者であるような分野に、彼女の研究は貢献している。特にドイツにおいては、ジェンダーに関わるバトラーの理論を受け入れることは非常に物議を醸し出し、フェミニズムにおいて活発な議論を引き起こした。彼女の最近の研究は、人種主義や侵略に反対し平等を求めること、ユダヤ哲学、そして国家暴力の批判を主にしている。ベルリンパレード (Berlin CSD) のあとすぐにベルリンを発ってしまったので我々は直接バトラーと話をすることが出来なかったが、バトラーが私たちのEメールにおける質問——人種主義とベルリンパレード、最近の彼女の政治的発言、近代フェミニズムが直面する問題、そしてユダヤ系の出自がどのような重要性を持っているのかについて——に回答する時間をかけてくれたことを喜んでいる。 続きを読む

ベルリンパレードでジュディス・バトラーが受賞拒否 [2010] (日本語字幕、訳付き)


英語版 元記事 Butler, Judith. I must distance myself from this complicity with racism, including anti-Muslim racism. Civil Courage Prize Refusal Speech. Christopher Street Day. June 19, 2010. Judith Butler  I must distance myself from this complicity with racism When I consider what it means today, to accept such an award, then I believe, that & 続きを読む

内部批判の意義


Twitter 上で松浦大悟さんと数日間やりとりさせて頂いている中で、尾辻かな子事務所閉鎖イベントにおける伏見憲明さんのスピーチの原稿を紹介していただいた。他のユーザーにも言及され、参照されている文章なので、ある一定方向の主張をするときには「まずこれを読んどけ」的な、 the Book 的な位置づけなのかもしれない。更に、彼の文章を紹介するブログ記事も見つけることができた。ボク自身は伏見さんの言いたいことも分かるし、それが(広い意味での)政治的な文脈で何らかの重要性を持つ/持っていたことも分かる。分かるのだけれども、同時に、表舞台に立って人々の支持を得ようとする際の問題を、ある部分においては明確にしつつ、しかしまたある部分においては隠蔽してしまう効果を持っているような気がして、特にその後者の部分に光を当てたいと思ってこの文章を書いているところ。 続きを読む

5/15 屋外オカマバー『バーおっかまん』月1で開催 in 群馬!


わたくしの母が主催者なのですが、来る5月15日(土)の夜6時から屋外オカマバーをOPENします。これはわたしたちの住む群馬県館林市の月1のイベント「下町夜市」への出店ということで、他にもいろんなお店が出ていて賑やかな感じになることが予想されます。 母とわたくしは今から準備に奔走しております。その様子などをブログで書いたり、告知をしたりするためにサイトを作ったので、よかったらそちらのお気に入り登録やRSS登録をお願いします。アクセス情報なども載っています。 http://baroccaman.wordpress.com/ また、mixi上にコミュニティも作ったので、よかったらご参加ください☆ http://mixi.jp/view_community.pl?id=4998305 以下、バーおっかまんの趣意文です。 バーおっかまんは、恋愛の対象が同性の方や 自分の体の性別に違和感がある方、そして 障害がある方や外国出身の方など すべてのお客さまを大歓迎します 性のあり方が「普通ではない」とされる人たちは 例えば1クラスに1−2人いると言われています。 きっと群馬にも、いや館林にもたくさんの LGBTQ(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・ トランスジェンダー・クィア 次の項目に説明アリ)の市民の方がいて 毎日仕事に行ったり学校に行ったり 近所づきあいをしていることでしょう。 しかしそのような方が集まれる場所は 群馬県内にほんの少ししかありません 東京まで行ってやっと同じ仲間に会えるという人が きっと、たくさんいらっしゃると思います そこでわたしたちは バーおっかまんをやることにしました どのような性のあり方をしていても わたしたちは同じ市民であり この夜市を楽しむことができると信じて…

ひろこさんには借りがある


『ハートをつなごう』というNHKの番組シリーズで昨日放送されたのは、障害をもつこととLGBTであることの両方がどのように重なるのかについてだった。それを見て、まず感想として持ったのは、「差異を認め、それを祝福することに、どうしてそんなに『幸福』が重要になってるんだろうか」というものだった。ひろこさんはVTRにも登場し、スタジオでメインゲストとしてインタビューを受けた、脳性麻痺を持つトランスジェンダー女性だ。彼女は番組中頻繁に「幸せそう」とか「かわいい人」と言われ続け、「やりたいことをやってる」強い心を持った人のような扱いばかりを受けた。でももし彼女が憂鬱な人だったら? 実際彼女が憂鬱な日々を送っていたことは、番組からも明らかだ。 スタジオインタビューでひろこさんは、頚椎を痛めて着たい服を自分で着れなくなったとき、手首を切ろうとしたと語る。それまではひとりで夜中に女性用の服を着て楽しんでいたが、服を着るのに介助が必要になったのだ。彼女は自殺願望を克服したのではない。彼女は単に、自ら手首を切ることが不可能だっただけだ。このようなことこそが私たちが真剣に考えなければいけないことだと思う。つまり、彼女の障害のために、彼女のセクシュアリティやジェンダー自認が消し去られてしまうという事態を、考えなければならない。昨日の番組のテーマは「ダブル・マイノリティ」。つまり、ひとは時に1つ以上の種類の差別にあうという意味であり、ひろこさんのケースではシスジェンダー中心主義と健常者中心主義の2つである。そしてこれが現実に何を意味するのかといえば、同情の念を表現することに躍起になっていた司会の男性が言うように単に2つの差別に同時に晒されているということではなく、人々は障害を持つ人間の性が障害を持たない人間と同じように性的であることを容易に忘れてしまうということである。ひろこさんにとってケガによる自由の喪失は、小さいころからずっと頚椎を痛めるまで楽しんでいた「女装」の終了を意味した。数年かけてやっと、女装をするときの介助や、女装をしたひろこさんとの散歩をする、理解のあるヘルパーに出会えたという。ボクはそれを、ほとんど奇跡だっただろうと思う。 確かにひろこさんは幸せそうに見えた。赤のチェックのミニスカートを着て、とてもうれしそうだった。しかしスタジオで交わされた言葉のいくつかには、ボクは我慢が出来ない。ひとりは、とても肯定的なことを言っているような顔をしながら、いかにひろこさんが「やりたいことをやってい」て、「すごく幸せそう」で、「勇気づけられる」かというようなことを繰り返し言っていた。また他のゲストは彼女の「チャーミング」な性格に言及し、「とてもかわいい人ですよね」と言った。ここで「あなたはとてもかわいい人ですね」ではなく、他の人に向かって「彼女はとてもかわいい人ですよね」と言ったこと、つまりこの人がいかにひろこさんの主体性を尊重していないかという問題は、とりあえず横に置いておく。しかし本当にいらいらするのは、この「幸せそう」とか「かわいい人」とかいう言い方だ。 VTRからもスタジオからも、ひろこさんがこれまで、健常者のほとんどが想像も出来ないほどの困難を経験してきたであろうことは明確に分かることだった。しかし今たまたま彼女が憂鬱とした日々から抜けだして、服装に関してある程度の自由を手に入れたからといって、いきなり彼女の人生の「より明るい部分」だけを称揚して、「好きなことをやっていていい!」とか「私もやりたいことをして生きていていいんだと思えました」とか言い出すのは、理解が出来ない。ひろこさんを他の人々と同様に扱うということはもちろん多くの場面において正しいことだと思う。しかしそれが時々引き起こすのは、彼女の変化に富んだ人生、彼女がこれまで経験してきたいいことも悪いことを、全て無視してしまうという事態だ。彼女の「強さ」や「勇気」を素晴らしいと思い、何かそれらから学ぼうとする暇があったら、まず彼女自身が自分の人生について何を語っているのかにもっと注意を払い、その人生のより暗い部分もまた尊重し、「幸せそう」とか「かわいい人」とか言うのをやめるべきだと思う。 私も含め、健常者の多くは、ひろこさんに借りがあるということを認識するべきだ。彼女は障害とLGBTの重なり方について私たちに確かに色々教えてくれた。しかしその恩義を私たちが容易に忘れて、「お返し」をしないで済ませてしまうのは、本当に問題だと思う。 個人的に、VTRにはあまり怒りを感じませんでした。スタジオで交わされた言葉が本当に嫌だったという話で。

「わたしには言葉しかない」場合——告発と検閲


言葉を持つこと、すなわちある程度の語彙と論理性に関する能力の訓練が可能な機会に恵まれた人生を一定期間過ごしたことがあるということは、やっぱり権力性を帯びないわけがない。そんなことは当たり前で、だからもちろん言葉を持つことというのは、特にその言葉が歴史的・社会的に権力を持っている/持って来たような文化のものであるとき、暴力的になり得るし、その取り扱いには注意しなければならない。しかもそれは西洋中心的な学問の言語であったり、あるいは啓蒙主義的で道徳的な語彙や定義であったり、色んな形態を取る。 言語は文化と密接に結びついているから、例えばある種類の「人種」を名指す言葉があったとき、それはその語彙を用いる文化における「人種」という概念そのものの見方を反映しているし(注1)、同時にその語彙によってその概念自体が再生産されたり強化されているだろう。ある時代になって初めてある特権的な領域(例:医学、法学)から新たな語彙が発明され、それが流通することで、世界の風景が変化することも多々ある。例えばセクシュアリティに関しては、それ自体が近代西洋医学によって発明された概念であり、それ以降西洋文化に影響を受けて来た社会においてはセクシュアリティが人を分類する一つの基準として採用されている。またあるいは「人工物」と「自然」を分ける考え方も、山々や木々、湖畔や昆虫などの風景を見る目をある程度枠付けしているだろう。 だから言葉は無力ではない。物理的な暴力の前には言語など役に立つわけがないという考えは、しかし何を「暴力」とするのかという言語的な問題を抜きに短絡的に同意してはならない種類のものだ。なぜなら、言語使用者を屈服させて物理的な暴力にものを言わせる行為というもの自体が、時に「文明的な社会(言語を使用し、理性によって統制されているような人々の集団)」に対する「野蛮な無法者(まともな言語を話さず、狂気に満ちた人々の集団)」という脅威、という枠組みで捉えられるからだ。そのように境界付けされた「無法者」たちは、まともな言語を話さないとされているのだから、どんなに声を届けようと挑戦しても、単なる狂者の「うめき声」としか解釈されない。だから「文明的な社会」に住む人々にとって本当の脅威は「野蛮な無法者」による物理的な暴力ではない。本当に彼ら彼女らが恐れているのは、「野蛮な無法者」の「うめき声」が実際に意味をなしてしまう瞬間である。 「野蛮な無法者」にとって、たとえどれだけ「野蛮な無法者」というのが不当な名付けであったとしても、それに対して不当性を訴えて名付けを拒否することは不可能である。それは、もちろん「まともな言語の話せない者には語彙の問題について意見など出来るわけがない」という文化的な信条/命令があるからであり、それと同時に、「野蛮な無法者」という呼びかけに応えないと決めた瞬間その者は、一切の語彙からはじき出されてしまうからだ。「野蛮な無法者」という名は、不当な名でありながら、同時にそこで名付けられている者にとっての唯一の名であり、それを使わずして世界に自分の存在を表明することすら出来ないような種類の名なのである。だから「野蛮な無法者」は、言語を捨て去ることが出来ない。どれだけその言語が彼あるいは彼女に不当な名付けを強いていようと、どれだけ不当な位置性を強いていようと、例えばサタンの肌の色がネガティブに「黒」と象徴づけられているからと言って「黒」という言葉を捨ててしまったら、たちまちサタンの肌の色を表す言葉がなくなってしまうのと同じように、「野蛮な無法者」「として」でもいいから存在しなければならない、という切実な(しかし仕組まれたデキレースのような)踏ん張りが、彼女あるいは彼を土俵際に留まらせているのだ。 しかしなぜそもそも彼あるいは彼女が、気づいた時には既に土俵際に追いつめられていたのかを考えなければいけない。「野蛮な無法者」は「野蛮な無法者」に生まれるわけじゃないが、誰が「野蛮な無法者」とされるか、あるいは、どの者の声が「うめき声」とされるかということに関しては、その者が生まれる前に文化的な規範によってある程度決まっている。この文化的な規範というのは多くの場合専門的な語彙に支えられており、例えば「東洋」、「同性愛者」、「黒人」など、「科学的」とされる語彙がそういった役割を担って来た。他にも「テロに屈しない」だとか「自己責任」、「フェミナチ」なんていう語彙も、その言葉が使用される文脈にある文化的な規範を反映するし、同時にそれらの規範を再生産する。 じゃあ「野蛮な無法者」側に配置されてしまっている者にとって、その配置を完全に拒否することがすなわち自身の存在の無化を意味するのだとしたら、どんな抵抗が可能なのだろうか。それは、新しい語彙や定義を文化的状況に投入して行くことでしかない。例えば Black Is Beautiful とか womyn とか queer とか Lame is Good と言うことで既に存在する語彙に新たな意味を付与しようとする運動に見られることであり、また一方で現状では関連して考えられていない語彙を結合させたりすることにも見られる(例:「ホモは普通」)。どのような語彙をどのように改変するかというのは人それぞれ自分の優先順位や問題意識によって異なってくるので、例えばある人にとって有効だと思うやり方がまたある人にとっては問題を更に深めると感じられる場合もある(例:「ホモは変態です」と言って「変態」という言葉の改変を目指す方向と「ホモは普通です」と言って「ホモ」という言葉の改変を目指す方向は、共有出来る思想があるにせよ、どこかで矛盾せざるを得なかったり)。 しかしこういった言語自体に介入することで行う抵抗は、しかし、大体の場合すぐには成功したりしない。そもそも「まともな言語を話さない」者たちのそういった試みは、「語彙の誤用」だとか「文法エラー」だとか言われて無視されたり、検閲されたりするのだ。だからそこには練り上げられた戦略が必要になる(本来そんな戦略を練らなければいけない謂れは一切ないのだけれど)。どんな戦略を採用するかというのは、やはり人それぞれ自分の優先順位や問題意識によって異なってくるのだけれど、例えば「当事者の声」として、「文明的な社会」の「市民」たちに自分たちの声をとにかく伝える、道徳的に「耳を傾けなければならない声」として自らの声を位置づけて(その時には「社会正義」とかいう概念を押し出すこともあるかもしれない)行こうとする方向もその一つだ。また、「うめき声」をそのままではなく、「文明的な社会」の「市民」たちにとって理解可能な言語に翻訳することで異なる言語のあり方(それはすなわち異なる文化のあり方でもある)を提示するというのも一つの方向。その際には恐らく既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を、一度学ばなければならない。一度学んだものを切り崩して、現状では「論理的」とされている言説に対する新しい「論理」を打ち出す必要があるのだ。どのような論理を打ち出すかと言えば、やはり人それぞれ優先順位や問題意識によって異なる。 ボク個人としてもそうだし、恐らく理論的な作業をしているクィア関連・フェミ関連の人たちもそうだと思うのだけれど、基本的には「うめき声」の翻訳の試みが重要な位置を占める。現在ある権力構造を改変するために、それの基盤であり同時に結果であるような言語体系に一度身を投じることでそこにある語彙を再利用して、その再利用のプロセスで「ずれ」を生じさせ、文化的規範に抵抗する。例えば「女は子を産む→だから女は子を育てる」という論理は「→」の部分にとんでもない飛躍があるわけで、そういう現存する文化的規範を切り崩すために、「女は子を産む→だから男が子を育てる」という文章を作ってみたらどうか。この第二の文の「→」には、第一の文の「→」と同レベルの飛躍があるが、だからこそそもそも第一の文の「論理性」というのも、唯一の正しい論理ではなく、可能な「飛躍」のうちの1つでしかなかったことが明らかになる。しかしこういった試みをするためには「女」「男」「子」「産む」「育てる」などと言った諸語彙(とそれらに付与された意味)を一度受け入れなければならない。 このように見ていくと、既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を(唇を噛み締めながら)一度学び、工夫して何らかの抵抗をしようとしている者たちの発言と、既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を(にこやかに)利用して自らの権力や特権を保持しようとしている者たちの発言の間には、あまりにも重要だが、あまりにも小さくて見えづらい差がある。「言葉を持つ」ことは権力的である、という発言が、しかしどういう意味で発せられる言葉なのかと考えなければいけない。それは、これまで「野蛮な無法者」と思われて来た者たちの抵抗の言葉を検閲するために発せられているのか(意図ではなくとも、効果的に検閲してしまうことは頻繁にある)、あるいはこれまで「文明的な社会」の「市民」と思われた来た者たちの特権保持のために発せされる言葉を「告発」するために使われているのか。 黙っていれば「野蛮な無法者」は死ぬ。「死ぬ」というのは必ずしも物理的な死を意味しないけれど、時として本当に物理的な死へと促されることもある。虐殺だったり、ヘイトクライム、自殺、摂食障害、不十分な医療サービスなど、リアルな死が「野蛮な無法者」を待っている。しかしだからと言って、語る言葉を学べば死から免れるかと言えば、そうでもない。言葉を使っても死ぬことはよくある。例えば去年あたりにカリフォルニアの学校で女性的なジェンダー表現をし始めた男子学生がコンピュータルームで他の学生に銃殺されたように。ある表現が更なる暴力の引き金になることはある。しかし発話することに少しでも抵抗の機会が見いだせるのであれば、つまり生き抜く可能性が発話することでしか切り開かれないのであれば、私たちは発話するしかない。黙れば死。喋っても死ぬかもしれない。でも死なないかもしれないのは、発話した時だけなのだ。 「わたしには言葉しかない」場合、その者の言葉を検閲することはマジョリティによる更なる抑圧である。「うめき声」も聞きたくなければ、「うめき声」が聞こえてしまった時にそれが解釈出来てしまうという恐怖をも払拭したい、という願望は、裏切られなければならない。その願望に突き動かされて「お前たちの言っていることは屁理屈だ」と言う人は多い。しかし自分の理屈だけが「理屈」で、マイノリティが理屈を言い出したら「屁」扱いをするのは、単なる願望の発露でしかなく、その際にいかに「理屈」そのものが、つまり言語体系や論理性そのものが権力性を帯びたものであると「告発」した気になっても、それは単なる「検閲」でしかない。 そして「あなた方の言葉は、どちらも権力性を帯びた危険なものです」と、中立的な装いで物事を「冷静に」判断しようとする者は、検閲と告発の重要な差異を見落としている。そして何よりもそこで見落とされているのは、そのように「中立」かつ「冷静」な判断が出来ると思っている本人の権力性である。しかも、「あなた方の言葉は、どちらも権力性を帯びた危険なものです」と言い出す者は、たいていの場合、その場で一番の権力を持っている。あたかも「告発」と「検閲」の両方を同時に行っているように見えなくもないが、しかし殆どの場合こういう人は「告発」だけを行うことはしない(注2)。「野蛮な無法者」が唇を噛み締めながら言語を学び、マジョリティに理解可能な言語を使って苦情を申し立てた時にだけしゃしゃり出て来て、権力性について言及したりするのだ。そういう場合、結局そこで行われているのは検閲でしかない。結局、既存の権力構造が温存されても何も困ったりしない者だからこそ、そういう「中立的」な物言いが可能なのだ。黙っていれば負けが確実な者が何とか生き抜くために死にものぐるいで獲得した言語(や論理性)を、「屁」としか思わないからこそ、そういう「中立的」な物言いが可能なのだ。 確かに言葉は権力性を帯びているし、暴力的にもなりうる。しかしだからこそ、現在の社会状況がどのような言語に正当性を見いだしていて、どのような言語に「うめき声」というレッテルを貼っているか、その暴力をまず見ないことには、言葉の権力性について何も考えていないのと同じである。 注1:例えば id:macska さんの[http://macska.org/article/102:title]にあるような「アジア系・太平洋諸島系」という人種カテゴリ。また、「アジア系」とか「黒人」といった言葉がアメリカで使われるときとヨーロッパで使われる時に、それらの言葉で指し示されている人々が必ずしも同じではないことも重要。 注2:そういうことを普段からしている人なんかは、たまに「喧嘩両成敗」的なことを言い出しても、ある程度信頼してもらえるしね。